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甲賀と伊賀のみち |
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奈良を訪れたあと天理に出て国道25号線を東へ向いました。
S字の九十九折を登って県境を越えて伊賀上野に向いました。
伊賀上野の城は、織田信長が伊賀を鎮定したあと城主が何代かかわり、藤堂高虎が五層の天守閣をもつ立派な城として完成させました。
しかし、戦国末期にこのような立派な城を築いたということが家康の疑念を招くのではということになり、完成と同時に、天守閣はとりこわされたといいます。 |
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伊賀上野の北側に横たわる三重・滋賀県境の山々を越える道はいくつかあります。そのなかで司馬さんの越えた御斎峠で伊賀から甲賀へ向かうことにしました。 |
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【路傍からしろい煙が湧き出てきた。炭を焼いているのである。道路の崖を利用してかまをきずき、かまのそばに簡単なテントを張って、二人の炭焼きが火の番をしていた。】
目の前に光景が浮かぶような一節です。炭焼き小屋はもう使われていないようですが、市の解説板が立っていました。 |
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峠へ向かう路傍には町石が遺っていました。
【高野山のそれは卒塔婆状に刻まれて立派に石造美術として評価されていいものだが、この御斎峠のみちの町石はずっしりとした自然石にちかいものに、何町という文字だけを刻んだものである。素朴なだけに、このほうがいいという美意識も成り立つ】
と記しています。 |
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峠は切り通しで眺望はききませんでしたが、その直前に伊賀上野を見おろす小さな広場がありました。「御斎峠跡」という大きな碑はここにありました。
【かつての古道のふんいきが消えてしまうのを悲しんで、わざわざ「御斎峠趾」という碑をつくったのであろう】
と述べています。 |
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御斎峠を甲賀へ越えると2車線だった峠道は昔ながらの1車線幅になり、緩やかなれど狭い山間の道になりました。峠を下って最初の山里が多羅尾。
【古格な構えをもった農家が山を背にして建っていた。石垣を積みあげ、下人を住まわせていたのかと思われるような長屋門をもち、いかにも地の利を得て堂々たる風姿である。】
司馬さんが目をとめたであろう立派な屋敷が目をひきました。 |
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多羅尾から山道を下って信楽を訪れました。
信楽について司馬さんは、
【信楽焼の古拙な気分はいまない。田舎の料理屋などの玄関に置かれているたぬき、あるいは火鉢や植木鉢といったものを焼いている】
とちょっと身も蓋もない感想を述べています。
せっかくなので国道沿いの窯元直売店に立ち寄り、小さめのたぬきを記念に買ってみました。 |
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紫香楽宮は、聖武天皇が当時の平城京から信楽に移そうとした新しい都です。聖武天皇は、大仏造立の詔を出し、甲賀寺建立に着手しました。しかし、山火事や地震など不吉なことが続いたために紫香楽宮建造をあきらめ、再び平城京へと帰っていったという幻の都です。
以前は紫香楽宮跡駅の北西にある礎石遺構が宮跡とされ、国の史跡に指定されていました。司馬さんも、ここを紫香楽宮だとして訪れています。
しかし、その後の発掘調査により、この場所は甲賀寺跡であり、約2km離れた宮町遺跡が紫香楽宮跡であるとされているようです。 |
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