肥前の諸街道 蒙古塚・唐津
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 文永11年の蒙古襲来後、鎌倉幕府は博多湾の今津から香椎までの約20キロに及ぶ防塁の築造を命じました。
 はじめは博多から便のいい「生の松原」の元寇防塁へ。
 地下鉄の姪浜からJRに乗り換えて下山門駅で下車。海岸の松原に向かって数分歩くと着くことができました。ここの築造は肥後国が担当したそうです。
 弓なりの綺麗な松原が続き、海岸に沿って2mくらいの石塁が続いていました。
 レンタカーを借り出して今津に残る防塁へ。国道202号をを西へ進み、今宿で右に折れて今津へ向かいました。今津の防塁は、大隅国と日向国が担当したそうです。
 埋もれていた防塁を半分くらい掘り出して見学できるようになっていました。
 少しわかりにくかったですが、「蒙古塚」は福祉施設である野の花学園の構内に碑が立てられていました。
 今津付近の浜は、流れついた元兵の水死体でうずまったそうです。
 近くには今津公園南側には「元寇殲滅之處」という大きな碑も建っていました。こちらは大正5年に建てられたものだそうですが、殲滅という言葉には多少違和感を覚えました。
 国道202号線を西へ走り、唐津が近づくと弓なりに続く松原が目に飛び込んできました。長さは約8キロ、二里あるので「二里の松原」とよばれていたそうですが、いつのころからか「虹の松原」と言うようになったそうです。

虹ノ松原を鏡山の展望台から
 唐津からは国道204号線を走り、東松浦半島の突端にある呼子港をめざしました。呼子には以前、壱岐へ渡る時にも立ち寄ったことがありますが、今回はイカ釣りの船を見に行きました。
 呼子の港には小型の漁船が多数停泊していました。また、道路沿いでは、あがったばかりのイカを干している姿を見ることができました。
 名護屋の浦にある「堀久太郎陣跡」を探して、呼子から西へ走ると、豊臣秀吉の朝鮮侵攻の際に諸大名のつくった陣屋趾があちこちに残っていました。
 唐津名物の松露饅頭
 国道204号を走り、東松浦半島をぐるっとまわって伊万里へ。
 さらに右手に海を見ながら松浦市を抜けて平戸に向かいました。
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