「峠」河井継之助を訪ねて  津
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古本で入手した「塵壷」
 「塵壷」は河井継之助が備中松山や長崎へ遊学した際に記した記録です。1859年6月7日に江戸を出発から始まり、津、京都、備中松山、長崎を訪れ、年末に再び備中松山へ山田方谷を訪ねたところまで綴られています。その日の天気しか書いてない日も多いですが、富士山に登れなかったことを残念がったりと人柄も表われているように思えます。
 そんな「塵壷」所縁の地へ。

斉藤拙堂山荘跡
 1852年、最初の江戸遊学の際に継之助は漢学者、斉藤拙堂の塾に通い、その後佐久間象山の門もくぐりました。
 その縁で1859年に西国遊学に出た折に津藩へ立ち寄り拙堂を訪ねています。

山荘跡の碑
 拙堂は記録によれば「1857年に63歳で引退し山荘を建て、学者・友人らと時局を談じ、酒を飲む自適の生活を送った」とありますから、継之助が訪ねた時期がこの頃のようです。
 津〜津新町間の線路脇に「拙堂先生山荘跡」の碑が建っていましたが、夏草に覆われ近づくことはできませんでした。

斉藤拙堂の碑
 偕楽公園の中にある斉藤拙堂の碑。
 偕楽公園は津藩の第11代藩主藤堂高猷により1859年に御山荘として完成したものだそうです。継之助が津を訪ねた年です。

藩校有造館跡
 拙堂が督学をつとめた津藩の藩校有造館は、津城内にありました。現在その場所は国道23号沿いのNTTになっていました。

有造館の門
 藩校有造館の門は津城跡(お城公園)に移築されていました。
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