「竜馬がゆく」を訪ねて  鞆の浦
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塩飽諸島
 いろは丸は伊予大洲藩から海援隊が借用した160トンの蒸気船ですが、これはもともと薩摩藩が購入し、のち大型船に買い換えた時に下取りに出した舟でした。
 海援隊の初仕事として武器・弾薬・商品を満載し、長崎から大坂へ出航しましたが、慶応3年4月23日深夜、塩飽諸島の多島海上で紀州藩明光丸と衝突しました。

鞆の浦
 これが日本最初の近代海難事故となるわけですが、右舷側が大破したいろは丸は、鞆の浦へと巨大な明光丸に曳航されている途中に積み荷もろとも沈没しました。

対潮楼から仙酔島
 いろは丸が沈没した地点は写真の仙酔島の向こう側になるようです。
 名勝の対潮楼からはまるで額縁の絵画のような風景です。
 龍馬と紀州藩の談判は、ここ対潮楼でも行われたそうです。

いろは丸展示館
 旧家大田家の港に面する土蔵を改装した「いろは丸展示館」
 海底に沈んでいるいろは丸の再現ジオラマや引き上げられた遺品などが展示されています。

展示されているいろは丸模型
 鞆の浦では「沖に唐人の船が沈んでいる」という話が伝えられていたそうです。それがいろは丸ではないかと調査を重ね、いろは丸とほぼ断定されました。
 調査の結果、船の部品や石炭、茶碗等が引き揚げられましたが、龍馬が主張した大量の武器弾薬というのはまだ見つかっていないそうです。
 積荷が大量の武器弾薬であると主張したのは多額の補償金を取るためだったのか今後の調査が興味深いです。そういえばいろは丸は衝突を避けるために左に旋回したそうですが、航法ルールからすると右旋回しなくちゃいけないような気もするし・・・

談判跡の碑

談判跡
 龍馬と紀州藩明光丸の船長高柳楠之助が談判した魚屋万蔵宅。交渉は決裂し長崎での交渉に持ち越され、結果7万両を紀州藩が賠償するということで決着しました。
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