「竜馬がゆく」を訪ねて  檮原 1
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武市半平太像
 江戸で久坂玄瑞、桂小五郎、高杉晋作らと出会い、土佐へ帰って土佐勤皇党を結成した武市瑞山(半平太)。
 土佐藩参政吉田東洋の暗殺後、藩は勤皇色となりますが、京都での政変(八月十八日の政変)により長州が京を追われると藩主山内容道による弾圧が始まり、投獄・切腹を命じられました。
 宇佐から須崎へ向う横浪スカイラインの中ほどに瑞山の像が建っていました。

吉村虎太郎像
 梼原村の庄屋である吉村虎太郎は、武市瑞山と土佐勤王党を結成、龍馬に先んじて脱藩しています。
 寺田屋事件で捕縛されますが、後に天誅組を組織しました。大和で挙兵したものの八月十八日の政変で孤立し幕軍により壊滅。
 国道197号からほんの少し入った東津野村役場近くに像が建っています。

中平善之進像

中平善之進処刑地
 津野山郷(檮原、東津野)では藩への上納米の代わりに土地の産物を年貢として納めていましたが、蔵屋という御用商人が違法に買い叩き農民は苦しんでいました。
 耐えかねて津野山の農民たちが起こした百姓一揆について、農民救済に生涯を捧げた大庄屋の中平善之進は一身に責を負い斬首されてしまいます。
 中平善之進の像は東津野村の高野舞台近く、国道197号沿いに建っています。
 一方、打ち首の碑は檮原村の風早峠旧道の脇にひっそりと建っていました。

那須親子邸跡
 那須信吾は、龍馬・沢村惣之丞の二人が脱藩する際に韮ヶ峠まで案内しています。本人も土佐藩参政吉田東洋を暗殺後脱藩しました。吉村虎太郎らと天誅組を挙兵し戦死しています。
 その養父那須俊平は道場を開いていましたが、信吾の死ののち脱藩、禁門の変に参加し戦死しました。
 那須邸跡は檮原街道の神在居・檮原間の旧道沿いの木陰に眠っていました。 

六志士の墓
 
 檮原のまちを見下ろす低い丘上に六志士の墓があります。
 土佐勤王党や天誅組、忠男隊に参加した津野山出身者が分骨して祀られていました。
 六志士
 吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、前田繁馬、中平龍之介、掛橋和泉

隠し部屋

掛橋和泉邸
 梼原村に生まれた那須順次は、神職・掛橋家の養子となり掛橋和泉と名乗りました。国学を学んだ和泉は志士たちの脱藩に際し家財を費やし援助したといいます。
 このことが発覚し、養父母に類が及ぶ事に悩み自決しています。
 梼原村にある掛橋和泉邸の内部には、当時志士たちが潜んだことを想像させる隠し部屋が残っていました。
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