佐渡のみち
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 7月17日、前の日の夕方に新幹線に乗って新潟入り。
 翌朝、早起きして新潟駅前からバスに乗り、8時発の佐渡汽船ジェットフォイルに乗船しました。
 1時間で佐渡の両津港に入港。さっそく埠頭前にあるマツダレンタカーでデミオを借り出しました。
 はじめに熱串彦神社へ。と思ったのですが国道350号の右手にそれらしき森があるものの道がありません。あぜ道を通って辿り着きました。
 社殿の脇に茅葺の能舞台がありました。
 国道350号を西へ走って佐和田の手前を右に折れて二宮神社へ。この神社にも能舞台がありました。
 社殿の奥に宮内庁の看板があり、「鎌倉時代、佐渡に流された順徳天皇の二番めの皇女の陵墓」と説明がありました。 
 佐和田で外海を見ました。街の中心で左折して真野の新町へ。海沿いの道は小木街道と呼ばれています。
 山本家という陣屋を探しましたが、地図に記載がなくて迷いました。司馬さんが「官道に面している」と書いています。これを頼りに新町の中心部あたりの国道沿いで注意していたら、それらしい門構えの家を見つけました。
 表札をみると「山本半右衛門」と書いてありました。
 資料館などではなく、現在もお住まいの住居でした。玄関先で悩んでいると、ご当主が現れ、中へ招き入れてくれました。朝から突然訪ねたのに、快く本陣の歴史や民具などについて説明をいただいてしまいました。
 11時に山本家をあとにして小木街道を南下しました。
 倉谷という集落の入口に「大わらじ」がありました。
 一里塚
 蓮華峰寺
「小比叡山」とも呼ばれます。佐渡が京都の鬼門にあたるとして弘法大師が開基したといわれています。室町時代に建てられた金堂や弘法堂など重要文化財の建物が多数ありました。「アジサイ寺」という通称のとおりアジサイが見事でした。
 小比叡騒動の舞台にもなりました。
 廃仏毀釈の嵐をどうかいくぐったのか。
 比叡山延暦寺の山王権現は日枝神社に名前を変えたのに、今も小比叡山には掲げられている「山王権現」の扁額 
 七右衛門のそば
 小木の町には江戸時代に40軒のそば屋があったそうです。
 メニューはかけそばだけで、注文は希望の枚数を伝えるだけです。冷たいつゆをかけて食べます。美味しかったので、お代わりをしました。
 13時、小木の宿根木地区へ。
 江戸時代に廻船業で栄えた地区です。小さな入り江に「 石置き屋根」の家屋がびっしりと集まっていました。
 小木から来た道を戻り、相川にある佐渡奉行所を目指しました。
 1601年に佐渡金山が開山され、その2年後に建てられたもので、金小判の精製工場も併設されています。昭和17年に火事で消失したそうですが、近年になって発掘調査と復元が行われました。
 道遊の割戸
 一つの山が縦に割れたような姿になるほど、のみと鎚で金の露天掘りを続けたそうです。
 無宿人の墓 
 幕府は江戸中期より、江戸や大阪の無宿人を佐渡に送り、金山の水替人足として使役しました。魚の油で灯りをとりながらの重労働で、送り込まれた無宿人たちは3年くらいで亡くなったそうです。
 佐渡金山
 実は中に入ったのは初めてです。「宗太夫坑」という江戸時代に採掘を行ってた坑道跡を利用し、採掘の様子を再現しています。
 知らなかったんですが、佐渡金山は平成元年まで採掘をしていたんだそうです。

 今日は一日で佐渡を早回りし、17時30分発のジェットフォイルで両津港をあとにしました。
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