因幡・伯耆のみち
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 鳥取空港でレンタカーを借り、鳥取(因幡・伯耆のみち)、島根(砂鉄のみち)、広島(芸備のみち)を訪れました。
 朝一番で訪れた鳥取砂丘は子供の頃の印象に比べ、ずいぶん狭く小さく感じました。自分が大きくなったからそう感じたのか、開発され砂丘の規模が小さくなったのか、どちらなんでしょう。
 鳥取駅の南西に位置する旧国府町、因幡の国府あとに行ってみました。
 この付近1キロ四方ぐらいから庁跡であることを証拠づける瓦や土師器の出土が多いそうです。
 宮ノ下小学校前を過ぎ、国府川にかかる小さな橋を渡ると因幡国府跡。
 正殿の掘立柱が整然と並んでいました。
 国道9号を西へ走ると、司馬さんたちが小休止した「白兎海岸」にでました。神話「因幡の白兎」伝説の舞台といわれる海岸です。
 少し沖に浮かぶ島が、白兎が渡ったという淤岐ノ島。
 夏泊は小さな集落でした。
 国道9号を西へ走り、気高町と青谷町の境にある長尾鼻の峠を下りると案内標識が出ていました。
 山陰地方で唯一残る潜水漁法(あまさん)の村だそうです。
 磯ぎわに夏泊神社という小さな古社がありました。
 鹿野町は小さいながら古い時代に町割されたままの城下町です。因幡の半分を治めた亀井氏の鹿野城跡につづく城下町について司馬さんも「ぜんたいに、えもいえぬ気品をもった集落なのである」と記しています。

 鹿野街道をはさんだ反対側には「そば道場」という、そば打ち体験のできる蕎麦屋さんがありました。美味しかったです。
 そば道場⇒
 鹿野町から三徳山を訪ねました。
 くに境の峠をこえて伯耆へ。

 三徳山三仏寺は大山とならぶ中国地方の霊場だそうで、大型バスが何台もとまっていました。
 長い石段の途中には、司馬さんたちが立ち寄った茶店がありました。
 倉吉へ。
 白壁土蔵が玉川の流れに沿って並び、重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
 白壁土蔵の他にも、石橋や赤瓦の町並みなど、倉吉の街には江戸期を思わせる古風な家や蔵がのこっていました。
 倉吉歴史民族博物館を訪れた司馬さんは、美術展開催中のため民具を見ることができなかったと書いています。行ってみると同じように行事のため閉鎖中でした。係りの人が「町にここしか展示会場がないので行事があると閉鎖なんです」と申し分けなさそうに言っていました。残念やらおかしいやらです。
 倉吉で考案され、全国に普及したという「伯州倉吉千刃」(稲扱千刃)を見たかったのに残念です。
 倭文神社
 ここでいう「倭」とは梶ノ木の繊維と麻の繊維の織物のことだそうです。平安時代ぐらいまで存在した織物「倭」に文を加えて「倭文」ということもあると司馬さんは記しています。文は模様の意味だそうです。
 この倭文を織る技術者集団のことを倭文部といい、かれらのもっていた神社が倭文神社だそうです。
 米子で泊まり、翌朝美保関をめざしました。
 長い砂浜の弓ヶ浜を右手に見ながら弓ヶ浜半島を北上すると境港。商店街にはゲゲゲの鬼太郎のモニュメントが並んでいます。メダマの親父とか猫娘とかの妖怪があちこちに立っていて、異様といえば異様です。
 境水道大橋をわたって島根半島へ。

 ゲゲゲの鬼太郎⇒
 美保神社の門前を脇に入った石畳。ふるい遊郭の通りだそうです。
 須田さんは、この青石畳と両側の屋並が気に入ったそうです。

 出雲の国の東端にあたる地蔵崎には美保関灯台が立っています。遊歩道を歩くと、かすかに隠岐の島影を望むことができました。
 美保関から再び米子に戻り、続いて三次、広島、津山とぐるっと一周しました。最後に再び鳥取へ戻るために国道53号を北上。奈良時代に吉備地方から因幡へいたる最短のみちだった黒尾峠はループの橋で高度をかせぐようになっていました。
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