北海道の諸道 旭川へ
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 富良野や美瑛には今までに十数回通いましたが、開拓の歴史を辿る旅は初めてでした。
 東京を早朝の飛行機で出発し、千歳でレンタカーを借りました。札幌市内を経て石狩川河口に向い、日本海に沿って北上。14時過ぎに厚田村を経て浜益村から国道451号を進みました。山中に入り、原生林を抜けて15時に月形町に出ました。
 まずは町の中央にある月形樺戸博物館(旧樺戸集治監)へ。
 北海道の初期の開拓は囚人たちによって行われた・・・、曖昧な記憶しかなかったのですが、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争などで敗れた側を逮捕し、国事犯・反乱分子として収監したのが始まりだそうです。道路開削などで次々と亡くなっていくほど厳しい労役が庁舎の石段の磨り減りに感じられました。
 道が作られた歴史を偲びながら走ると、初夏の爽やかなドライブも違った風を感じるような気がしました。
 少し重たい気分になりましたが、気を取り直して国道275号を北へ。月形町から新十津川村へと向いました。
 16時に新十津川村に到着。奈良十津川村の豪雨による大災害ののち、離村して北の台地へ移り住んだ人たちは十津川村の郷社である玉置山の神体を分祠して、新十津川神社と名づけたそうです。
 原生林と、山以外はほぼ湿原ばかりの蝦夷地における道路開拓には囚人の労働力が使われました。
 かれらは極寒のなかを単衣一枚で労働させられ、屋内でも火気を用いさせられなかったことなどにより、「わずか一年というあいだに、二割以上の囚人が死んだ」そうです。

 今日は北海道開拓の歴史を訪ねる日でしたが、賊軍の汚名を着せられて原野の開拓にあたった人たちを想うと複雑な日となりました。
 今日は旭川東横インに宿泊。
 旭川市にある旧第七師団の偕行社。
 旧陸軍の現役将校のクラブで、明治35年に建てられたそうです。
 昭和43年に建設当時の姿に復元され、市立旭川郷土博物館として使用されていましたが、平成6年からは彫刻美術館となっています。
 屯田兵屋。
 明治23年から24年にかけて約400戸建設されたそうで、この建物は,明治24年永山屯田に入植した人が使用したものだそうです。
 司馬さんが訪れたときは偕行社の隣に移転復元されていたようですが、現在は旭川市博物館の内部でに展示されていました。
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