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硫黄島(1) | ||||
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硫黄島を訪れました。 硫黄島は東京から1250km、小笠原諸島のさらに南に位置する周囲約24kmの火山島(約2000mの高さの山の頂上部)です。 北硫黄島・硫黄島・南硫黄島の三島からなり、戦前は硫黄の採掘や砂糖栽培などが行われていたそうです。 太平洋戦争が始まり、米軍は本土空襲をするための中継基地とするため,、硫黄島の占領を図りました。これに対する日本軍は、地下に塹壕を掘り、持久戦で対抗しました。 昭和20年2月、米軍の上陸作戦が始まり、日本軍は地下壕の猛烈な暑さと硫黄ガス、飢えや渇きのなか1ヶ月以上戦い、そして玉砕されました。 米軍は硫黄島の占領により本土空襲が可能になったほか、塹壕への火炎放射器攻撃という沖縄戦の戦略を得たと言われています。 硫黄島は戦後も米軍による占領が続き、昭和43年に小笠原諸島とともに返還されましたが、21187名の戦死者ののうち、いまだ12000柱の遺体が眠っています。 |
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航空自衛隊 C130輸送機 |
輸送機の中 |
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入間基地から航空自衛隊の輸送機に乗り込みました。 YSの場合もあるようですが、C130でした。 輸送機なので防音になっておらず、慣れた方々は耳栓と文庫本を持参されていました。 |
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摺鉢山 |
輸送機だったので小さく丸い窓が背中に開いているだけ。 3時間ほどたつと、その小さな窓から摺鉢山の異様な山容が見えてきます。 滑走路に降り立つと、南の島独特の乾いた空気に包まれました。 |
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戦没将兵慰霊碑 |
最初にまず島の北東にある戦没者慰霊碑へ。 旧海軍の司令部壕の真上に位置しているそうです。 塹壕では地熱による喉の渇きが凄まじかったとのことで、花と水を捧げました。 |
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米軍上陸の南海岸から望む摺鉢山 |
上陸する米軍(毎日新聞社) |
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昭和20年2月16日から艦砲射撃や空爆が始まり、19日にB29による大規模空爆と艦隊からの一斉砲撃が行われました。 その後、南海岸より約130隻の上陸用船艇が上陸しましたが、日本軍の猛反撃のため、米軍の戦死傷者数は日本軍の戦死者を上回っているそうです。 |
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摺鉢山に残る日本軍機関砲 |
摺鉢山の南東斜面 |
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海軍指令所のあった摺鉢山への米軍の砲撃は凄まじく、文字通り山容を変えてしまったと言われています。 山頂から見る南東斜面は山塊の約4分の1を吹き飛ばされ、崖下の火口からは噴煙があがっていました。 |
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山頂に並ぶ日米の慰霊碑 |
日本の慰霊碑 |
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山頂には、日本の各県の石がはめ込まれた戦没者顕彰碑、特攻隊慰霊碑、そして米海兵隊の上陸記念碑が並んでいました。 米国の記念碑には星条旗を立てる米兵のレリーフが誇らしげに埋め込まれていて感情は複雑・・・ 慰霊碑の先には南硫黄島の特異な三角形が浮かんでいました。 |
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