北国街道とその脇街道
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 夏休みを利用して琵琶湖から敦賀、武生にかけての「北国街道とその脇街道」と、福井を中心に一乗谷、宝慶寺、永平寺など「越前街道」、さらに高岡に出て五箇山から美濃へ「郡上・白川街道」とぐるっと回ってみました。ちょっと欲張りだったかもしれません。
 8月7日、長浜で朝を迎えました。7時半にホテルを出発し、国道8号を北上して木之本へ。
 織田信長の跡目争いである賤ケ岳の合戦の際、賤ケ岳に陣取る柴田勝家軍に対峙するため、秀吉軍が燈明をたかせて機の者と集落を急進したといいます。1車線強の道筋は古い家並みが並んでいて、往時を想像させてくれました。
 木之本で国道8号とわかれ、国道365号北国街道を少しばかり進んで余呉湖を訪ねました。
 余呉湖の西岸に新羅神社跡の碑があるといいます。少しわかりにくかったですが、細い湖岸道路を進み、右手の小高い丘を少し登った林間にありました。
 余呉湖を一周しました。
 正面の山が賤ケ岳。山を隔てて向う側が琵琶湖。この浜で賤ケ岳の合戦の火蓋が切られました。
 続いて塩津を経て琵琶湖の北西岸にある海津へ。北国街道の要衝として栄えた宿場町・港町です。
 北国の米や北前船から陸揚げされた物資が敦賀から山越えして海津に運ばれ、ここから船で琵琶湖を渡って大津・京へと運ばれていきました。
 城壁のような石垣が湖面に映っていました。
 西近江路、いまの国道161号で敦賀を目指します。
 滋賀県と福井県の境にある峠は「国境」といいます。カーブを曲がった峠の先はプリンス系のスキー場でした。
 ここに愛発の関があったのでしょう。 
 「親鸞上人 有乳山旧跡」の石柱は峠の頂上に建っていると思いこんでいたので、峠付近をうろうろしてしまいました。
 どうにも見当たらず、峠にある民宿の方に聞いたら、敦賀側に少し下ったところにあるということ。教えてもらって坂を下って行くと路傍に石柱が建っていました。
 左に入ってゆく細い道が【上古以来の道であり、親鸞も通り、織田軍も通った道】です。
 11時半、敦賀市内に入りました。まず最初は松原神社近くにある武田耕雲斎と水戸烈士の墓を訪ねました。
 水戸の天狗党と呼ばれた彼ら776人が新保という村で幕府に捕らえられ、収容されたというニシン蔵。松原神社の境内に残されていました。
 収容された776人のうち352人が処刑されたといいます。
 時は流れたいま、ニシン蔵の内部は陽が差し込んでいることもあり、凄惨さは感じられませんでした。
 続いては気比の松原。
 司馬さんは厳冬の2月21日に訪れています。8月7日に訪れたら海水浴客でいっぱいでした。駐車場もいっぱい。
 旧敦賀港の東端に突き出た金ヶ崎城跡
 南北朝の時代、後醍醐天皇側の楠木正成が戦死しした後、残った新田義貞が立てこもった末にここで敗れました。
 戦国時代には朝倉氏を攻めようとした織田軍が拠点としましたが、浅井氏が朝倉側に味方したため戦況不利と判断し京へ退軍しました。
 木ノ芽峠には歩いて山越えするしかないのかと思っていたのですが、新保という集落から細い林道が伸びていることがわかりました。(いちおう通行禁止になっていましたが)
 街道をゆく「北国街道」では上古からの木ノ芽峠について文中で触れていますが訪れてはいません。
 峠の前後は石畳で茅葺の茶屋が建っています。茶屋のご主人は桓武天皇の末裔、平清盛から37代目という方でした。
 木ノ芽峠から林道を下り、365スキー場を横切ると国道365号にでました。この分岐が板取の宿。織田信長が北国街道を拓いてからは、木ノ芽峠への道との分岐点になり、宿場として栄えたそうです。
 茅葺の家が現在の国道から少し入った旧道沿いに残されていました。
 武生の町中にある蕎麦屋さん「うるしや」
 司馬さんが武生を訪れた大きな目的が、ここのおろし蕎麦だといいます。食べたかったんだけど、夕方なので閉まっていました。残念です。
 「うるしや」が閉まっていたので、武生から杉津の浜まで走ることにしました。
 継体天皇も信長も木ノ芽峠越えでしたが、国道8号は海に沿って走っています。大山塊が直接海に落ちているため、波打ち際に洞門やトンネルが連続していました。
 越前はなぜか水仙が多く自生しています。
 真冬に訪ねないと咲いていないのですが、越前岬近くの水仙ランドという植物園には、温室ならぬ冷室があって、8月でも見ることができました。スゴイ!
 武生ではバイパス沿いのプリンスホテル武生に宿泊しました。翌日は「越前の諸道」を訪れます。
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