沖縄本島
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 金城町の石畳
 司馬さんは、「もし沖縄戦が無かったら、首里の街は都市美として奈良をもしのぐほどのものがあったろう」と述べています。
 坂を上る石畳の道は、首里城への幹線道路として16世紀初頭につくられたものだそうです。沖縄戦の戦禍で殆どが破壊されましたが、金城町の約300mは奇蹟的に戦禍をまぬがれたそうです。
 玉陵(たまうどぅん)
 フリガナがなければ読めません。石畳を登ると首里城、そして西側に玉陵があります。
 奄美大島から八重山諸島にいたる琉球王国を築いた尚真王が1501年に父の遺骨を納めるために建てたお墓です。壮大な石造の建築物で、併設されている博物館では、巨大な亀甲墓のように埋葬されている内部に様子が、わかりやすく解説されていました。
 首里城
 閉門時間が近づくとライトアップされると係りの人に教えてもらったので、人が少なくなってからもしばらく待ちました。
 やがて浮かび上がった正殿は幻想的でした。うなーと呼ばれる広場に引かれた赤白のラインは、役人が位順に並ぶための目印だそうです。
 司馬さんは、沖縄本島における記述のうち約半分のページを沖縄戦に関する想いに費やしています。
 南部の平和祈念公園は、沖縄戦最後の激戦地、摩文仁の丘一帯を整備した公園です。沖縄戦の犠牲者すべての名前が刻まれた刻名碑「平和の礎」を目の当たりにすると言葉も出ません。
 糸満の漁港にて
 サバニにスルメと米を積み込んで、はるか熊野灘まで漁に出ることもあったといいます。
 那覇から国道331号を東へ走り、知念町にある斎場御嶽を訪ねました。 斎場御嶽は琉球王朝の祭祀の場で、七つの御嶽のひとつとされています。王朝最高位のノロが即位の儀式も行われる最高の聖域です。
 「街道をゆく」の中では記述されていませんが、沖縄本島には数多くのグスク(城)が残されています。
 その中でも世界遺産に登録されたグスクを回ることにしました。

 那覇から56号線を北上し、読谷村にある座喜味城へ。15世紀初期に築かれたといわれています。築いたのは北山や南山と戦って三山を統一した護佐丸。アーチ型の城門をくぐると、西の海岸線を見渡すことができました。敵の動きをを見張るのには最適な場所だったようで、戦時中には旧日本軍の高射砲陣地に、戦後は米軍のレーダー基地になったりもしたそうです。
 読谷村にある「焼き物の里」に立ち寄ってから国道56号をさらに北上。今回も本部半島にある「美ら海水族館」に向かいました。ジンベイザメとマンタを堪能したあとは国道505号を進み、今帰仁城(なきじんぐすく ←また読めない・・・)を訪ねます。北山の王、攀安知の今帰仁城は海岸線から右に折れて坂を上った標高100mほどのところにあります。琉球石灰岩を用いた野面積みの城壁は1500mもあるそうで、首里城に次ぐ大きな規模なんだそうです。城の中には正殿跡のほか拝所などもありました。
 那覇市内に戻って沖縄民謡を堪能したあと、翌日は勝連城を訪ねました。 沖縄自動車道を北上し、コザを経由して勝連半島へ。もうひとつの目的地である浜比嘉島を海中道路を通って訪問し、その帰りに勝連城を訪れました。
 駐車場に車を停めて眺めた勝連城は、城壁と石段が丘陵の上に聳えていて、スペインのグラナダを思い出させてくれます。堂々たる存在感を感じました。
 勝連から再びコザ(今は沖縄市だったっけ)を経由し北中城村にある中村家住宅を見学してから中城城へ。中城城は、琉球石灰岩の台地の上に築かれていて、300あるという沖縄の城跡の中で最も良く城郭が保存されているんだそうです。座喜味城主の護佐丸が国王の命令により移り住み、完成させましたが、勝連城主の阿麻和利の策略により国王への謀反の疑いをかけられて自害したという説が知られています。
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