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壱岐・対馬の道 −対馬− |
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▲ NEXT南伊予・西土佐の道 |
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「絶島にして、方四百余里。土地は険しく深林多く、道は獣道の如し。千余戸有り。良田は無く、海物を食して自活し、船に乗って南北に市てきす」
魏志倭人伝にも登場する対馬に渡ることにしました。 |
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7月29日。福岡空港を7時50分に飛び立ち、所要時間わずか35分で対馬空港に到着しました。右手の窓から、バルチック艦隊を破った日本海海戦はこのへん?とか、黒潮って黒いの?などキョロキョロしてたら、あっという間に着陸しました。飛行機だとホント早いなぁ。
空港の建物を出るとハングルで「歓迎」の看板がありました。
曰く、釜山まで53km、博多までは130km・・・ |
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長崎県立対馬歴史民族資料館を最初に訪ねました。
先日、近江八幡を訪ねた際に、街角に通信使街道跡という碑が建っているのを見つけました。鎖国していたはずの徳川時代に、朝鮮通信使の一行が釜山から対馬を経て江戸を往来していたなんて、学校で習ったかなぁ・・・
最近気になっていたので、資料館の庭に「朝鮮通信使の碑」を見つけた時は興味深かったです。 |
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朝鮮通信使の絵巻 |
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資料館には日本最古の縄文土器や朝鮮通信使の行列絵巻などが展示されていて面白かったです。資料館の方が忙しそうに何かの準備をしています。なんだろうと聞いてみたら、8月に入ると「対馬アリラン祭り」というのがあって、朝鮮通信使を模した行列などが行われるんだそうです。見たかったな。 |
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対馬は魏志倭人伝にも登場しますが、厳原の町の歴史は室町時代に宗氏が対馬国の守護大名となったことで城下町が形成されたそうです。
城下町の古い街並や石垣にかこまれた武家屋敷跡が雰囲気を出していました。 |
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対馬藩主の宗家の菩提寺である万松院へ。
132段と言われる石段を登ると、宗家の墓がずら〜と並んでいます。 |
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お船江という港の跡に立ち寄りました。
対馬藩時代の船着場で、朝鮮通信使の人々もここから上陸したんだと思います。築堤の石積みは当時のままだそうです。
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島の西側の椎根という集落に石屋根の倉庫が建っています。冬の強い季節風から貴重な食料を守るために、板状の石で屋根を葺いた高床式の倉庫です。日本では椎根だけに残る建築物だそうです。 |
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文永11年、対馬に蒙古軍がやってきました。迎え撃った守護代の宗助国率いる武士団80騎は、この小茂田浜で全滅。蒙古軍は、対馬と壱岐の島々を荒らしに荒らし、博多に上陸するに至りました。 |
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浜の近くには小茂田浜神社があり、松林のなかに守護代の宗助国らの霊が祀られていました。 |
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再び対馬の西岸から空港近くの東海岸に戻り、国道382号を北へ向かいました。
少し行くと対馬を南北に二分している万関橋が見えてきました。ロシアの南下政策を怖れていた旧日本海軍が、いざという時に艦船を通せるようにと対馬の狭隘部を掘り下げて作った人工の海峡です。この水路により、朝鮮海峡と対馬海峡が対馬中央部で直結されています。大胆な発想だなぁ。 |
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和多都美神社
「延喜式」にも出てくる古い神社だそうで、浅茅湾の中に立つ2つの鳥居が印象的でした。 |
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対馬の最北端にである鰐浦へ18時に着きました。ここから韓国までは50km弱だそうです。
丘の上に韓国展望所という建物があり、天気がいいと釜山の夜景が見えるといいます。試しに暗くなるまで待ってみましたが、靄がかかっているようで、よくわかりません。
諦めて本日の宿である国民宿舎上対馬荘に向かいました。 |
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翌朝、再び韓国展望所にチャレンジしてみました。
目の前の海栗島(うにしま)はウニが採れることでこの名前が付いたそうで、航空自衛隊のレーダー基地が見えました。海栗島の後ろに釜山の街並みが見えるらしいですが、夏は無理みたい。
このあとは上対馬から島の東海岸を辿って空港に戻りました。走ってみて感じたのは、予想以上に対馬は大きく、また山が深かったこと。あとで調べて見みたら、佐渡、奄美大島についで日本で3番目に大きい島ということでした。 |
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