南伊予・西土佐の道
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 松山から砥部町へ向かう途中、原町を経由する旧道の左手に「大森彦七之遺跡」という祠がありました。
 大森彦七は南北朝時代の砥部の城主で、湊川合戦のときに楠木正成を敗死させたことで知られています。その怨霊が鬼女となり彦七を襲ったという伝説があります。

 砥部は焼物で有名です。司馬さんたちが訪ねた梅山窯は町中から山を少し登った小高い所にありました。声をかけると作業場の中を見学させてもらうことが出来ました。
 内子
 内子は江戸時代から木蝋と和紙で栄えました。八日市・護国と呼ばれる地区は往時の面影を残す白壁や格子戸の家屋が並んでいました。
 大洲
 国道で肱川を渡る際、下流側(右手)に見えるのが大洲城の小さな櫓と、背後の巨大なコンクリート構造物。司馬さんに酷評された市民会館は移転させる話もちらほらあるそうです。
 肘川に面した油屋旅館
 写真を撮ったあと取り壊された聞きました。残った土蔵を改造した創作料理の店として生まれ変わったそうです。
 創作料理「油屋」⇒
 卯之町 開明学校
 明治15年に建てられた現存するわが国最古の小学校建物だそうです。
 ちなみに松本にある旧開智学校は明治9年なんだけど、昭和38年に移築復元されているんだなぁ。
 200円の入場料を払って建物に上がると、明治初期の小学校教科書や教材が多数陳列されていました。
 司馬さんの目にとまった「いろは」の掛図もありました。昔は教科書というものが普及していなかったので、掛図を用いることが多かったそうです。
 卯之町と吉田町の境は法花津峠。国道56号は長い法華津隧道を通っていきますが、旧道を走ると宇和海が広がっていました。
 法華津の道は羊腸たるもの・・・
 伊達政宗の長男、秀宗の宇和島入りの際に越えたのもこの峠だそうです。宇和海を見下ろす中腹沿いの道ですが、南予の宇和島と外界をつないでいた重要な峠身だったんだなぁ。
 ちょうどミカンの収穫時期でした。
 宇和島駅
 司馬さんが行き止まりの線路を見て、「最涯」といたく感銘していたホーム。
 法華津峠を下ると吉田町。司馬さんが訪れた頃は道の両側に武家屋敷が建ち並んでいたようです。今もところどころに残っていましたが、川を挟んだ山あいに「国安の郷」という施設があり、歴史ある家屋が保存されていました。
 寄合酒を催した宇和島の斎藤鮮魚店。
 今宵も2階から賑やかな話し声が聞こえていました。
 宇和島のホテルで泊まって、朝いちばんで大超寺奥へ行ってみました。
 珍しい地名だと思ったんですが、その名のとおり大超寺という寺の奥にあたる高台です。登ると宇和島の町を一望することができました。中央の小山が宇和島城。
 有名な展望所かとおもったんですが、完全1車線を登っていく高台でした。
 山形模型
 松野町目黒ふるさと館
 江戸期の目黒村が山の境界で揉めたとき、幕府に訴えるため製作した山河の模型が展示されています。
 伊予と土佐の境

 「お道を」と呪文のようにつぶやいた・・・

 南伊予の最後を飾るシーンが思い浮かびました。
 四万十川の流れ
 県境を越えると西土佐のみち。街道をゆくの表題は「南伊予・西土佐のみち」となっていますが、西土佐については「また項を改めて書きたい」と結ばれています。
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