肥前の諸街道 横瀬・長崎
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 昨夜のイカは美味しかった。
 余韻をひきずったまま、早朝の石岳に登って九十九島を眺めました。
 石岳展望台を9時半に出発。佐世保から国道35号に入り、早岐を経由するためバイパスに入らずに走ります。
 田の浦という標識を見つけ、狭い町中を進むと、「早岐の瀬戸」らしい風景に出会いました。
 針尾を経由する202号を進み、針尾瀬戸をまたぐ西海橋を渡ります。
 小迎の三差路を右に曲がり横瀬を目指します。
 横瀬は、永禄5年に平戸を追われたカトリック神父が新たな布教の拠点にした所です。それまで一漁村にすぎなかった横瀬は、一転して南蛮貿易の港となりました。
 港を見下ろす教会の跡地が横瀬浦史跡公園になっています。南蛮関連の史料が展示されているほか、広場には司馬さんの碑も建っていました。
 横瀬湾の中央あたりに部に「聖ペトロ島」と呼ばれる小さな島が浮かんでいます。司馬さんは松露饅頭のように可愛いと印象を述べています。
 もちろん、ポルトガル人たちが勝手に呼んだ名前で、本当は八ノ子島といいます。
 大村純忠は洗礼を受け、日本で最初のキリシタン大名となりました。横瀬の町も商業が盛んになり栄えましたが、仏教弾圧を不服とする内乱が発生し、横瀬は炎に包まれてしまいました。
 ポルトガル人たちは横瀬を離れ、長崎の福田へと移っていきます。
 その福田を目指し、右手に海を眺めながら、国道202号を南下しました。これがけっこう遠かった。
 横瀬の浦を焼打ちにより失ったポルトガルの神父と商人は、長崎市の西にある福田の港に移りました。
 「福田本町」というあたりに車を停め、集落のなかをうろうろしたのですが、予備知識不足のためか、南蛮関連の遺跡などは見つけることができませんでした。
 坂本龍馬が長崎で起こした亀山社中跡を訪ねました。
 寺町通りにある禅林寺横から登っていく石段を登って行こうと思いましたが、駐車スペースが不安だったので、逆に山の上にある風頭公園から石段を下って訪れました。この石段は最近「龍馬の道」と呼ばれています。
 9月2日、再訪する機会を得たので春徳寺を訪ねました。長崎甚左衛門純景の城跡はこの春徳寺の背後だそうです。
 アルメイダ神父は甚左衛門から布教の許可を得て建てたコレジョセミナリオがこの地です。境内にはキリシタン井戸、背後の墓地には通事東海の巨大な墳墓がありました。
「長崎湾というのは、どこから見ても絵になります」
 須田画伯のつぶやきに同感です。
 稲佐山からの夜景も定番とはいえ文句のつけようがなかったです。

 旅は島原へと続きます。
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