秋田県散歩
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 5月5日、青森から八甲田、田舎館村をまわって黒石から東北自動車道。碇ヶ関を過ぎて秋田県に入りました。
 小坂ICで降りて津軽街道と呼ばれる国道282号を8kmほど南に下って内藤湖南の村毛馬内を訪れました。
 毛馬内は江戸時代始めに南部藩主により整備された城下町です。
 鹿角市先人顕彰館を訪ねました。東洋史学者・内藤湖南とヒメマス養殖の和井内貞行を中心とした資料が展示されています。
 なかでも湖南の旧宅が復元され、「蒼龍窟」と書かれた扁額がかかげられていました。
 毛馬内から国道103号を5kmほど東へ走り大湯環状列石へ。
 県道を挟んだ万座環状列石と野中堂環状列石の2つを中心としており、約4000年前(縄文時代後期)の遺跡と言われています。
 大湯をあとに国道103号を西へ。
 大館市街地の手前で国道を離れ、二井田という集落にある温泉寺に向かいました。ここには、大館にうまれた江戸中期の思想家、安藤昌益の墓があります。
 
 二井田をあとに大館市街地へ向かうと、夕暮れになりました。今晩は大館のルートインに宿泊。
 
 5月6日、狩野亨吉の生家跡のある大館城址近くの石田ローズガーデンを訪れました。ちなみに大館城は、明治元年の「秋田戦争」の際に城下もろとも兵火に罹って灰塵に帰してしまいました。
 京都帝国大学文科大学長だった狩野亨吉は、1908年に「安藤昌益」の存在を世に紹介しました。
 大館を9時に出発、国道7号線で能代に向かいました。
 バイパスから能代市内へゆき、風の松原と呼ばれる防砂林。越後屋太郎右衛門という町人が私財を投じて防砂林を築いたそうです。
 11時に八郎潟の干拓地へ。一直線の農道を南下すると右手に鮮やかな黄色い絨毯が広がっていました。
 ちょうど菜の花祭りが開催されていました。通ってきた農道も菜の花ロードと呼ばれているそうです。
 干拓前の八郎潟は静岡の浜名湖に似た潟だったそうです。いまはすっかりうずめられてしまい、水田がひろがっています。
 秋田市の北方、県立博物館の近くに「旧奈良家住宅」がありました。
 江戸時代の旅行家・紀行の書き手だった菅江真澄が滞在していたと言われています。
 秋田市街に入り古四王神社を目印に走りました。
 秋田城址を過ぎて左側に神社をみつけ、社務所で菅江真澄の墓の場所を教えてもらいました。
 神社の向かいからくだってゆく小径を進むと、右手が丘になっています。石段をのぼってゆくと「菅江真澄翁墓」と刻まれた墓がありました。
 秋田から延々と国道7号を南下、右手に海を見ながら本庄市を越えてさらに進みます。本庄市への寄り道を含めて約2時間。象潟に到着しました。
 
「陸であるのに海であるかのような印象をあたえはじめた。田畑のなかに点在している古墳状の丘は、じつは島だったのにちがいない」

 松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅で訪れたころは、無数の小島が浮かぶ海だったそうです。
 象潟の蚶満寺に16時半に到着しました。
 松尾芭蕉は当時、島の上にあったこの寺に船で着いたそうです。境内に船をむすんだ岩が遺されています。
 象潟に起きた大地震のために潟が隆起し、いまは田の中に浮かぶ小さな丘になっていました。

 象潟や雨に西施が合歓の花
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