陸奥のみち
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 5月3日。前日の夕方に東京を出発し東北自動車道を一気に北へ。時間的に水沢が限界だったので、一泊してから翌朝さらに北へ走りました。
 松尾八幡平ICで高速を下りて沼宮内に向かい、国道281号で平庭峠越えをしました。
 平庭高原は白樺林のみちでした。
 12時30分、久慈市に到着。
 町を見おろす巽山公園に登ってみました。丘の上には巽山稲荷神社というお社があり、その前の広場には柔道家「三船久蔵十段留魂之碑」という碑が建っていました。
 久慈駅
「この駅からむこうはレールがないのだ」
 司馬さんは書いていますが、1975年に久慈〜普代間が国鉄久慈線として開業し、1984年には久慈と宮古が北リアス線としてつながりました。
 国道45号を一路北上しました。思いのほか山の中で海は見えません。階上町から旧道に入るとやっと海沿いの道になりました。
 14時に種差海岸。10km以上にわたり美しい海岸が続いています。青い松と白い砂浜、青大小岩礁など変化に富んでいます。
 台上の芝生は大勢の家族連れで賑わっていました。
 15時、八戸の鮫に到着。
 「石田家」という古い旅館を探しました。繁華街ではなく、駅から少し南に下った線路の海側に風格のある門がありました。昔は海に面していたそうです。 
「屍を我に賜へ、我が母餓死の後に返へすべし」
 八戸領民6万5千人のうち3万人以上が餓死したという天明の大飢饉。その餓死者を供養するため建立された供養塔。
 新井田にある対泉院の門前に建っていました。
 16時に「根城の広場」に着きました。
 中世に北奥羽を治めていた城郭の跡で、土塁や掘割をはじめ、発掘調査に基づいて復原した主殿など城郭全体を整備した広い史跡公園になっていました。
 規模も大きくて驚いてしまいました。
 国道104号を三戸方面に進み、櫛引八幡宮の駐車場に車を停めたのが16時半。
 拝観時間を過ぎちゃったかなーと思い社務所の方に聞いてみました。「あら、遠くからいらっしゃったんでしょう。是非見ていってください」と宝物館の鍵をあけ、電灯を点けてくれました。感謝です。
 宝物殿の中には「伝長慶天皇御料」と書かれた「赤糸縅鎧兜」をはじめとする大鎧5領などが展示されています。5領のうち2領が国宝だそうです。
 17時に八戸を出発。陽のあるうちに野辺地に着きたかったので、三沢まで第二みちのく道路を使、そして県道8号を飛ばして北を目指しました。
 18時を過ぎて野辺地を通過。国道4号を走り、藩境塚にぎりぎり明るいうちに到着しました。
 藩境塚は、当時の奥州街道の南部藩と津軽藩の境界である双股川の両側に築かれた土塚です。両藩に2つずつ、計4つの塚が造られ目印になっていました。
 気の済むまで塚のまわりや野辺地湾の海岸をうろうろしていたら陽が暮れてしまいました。今日の宿は青森市内、朝から少し強行軍でしたが、暗闇の国道4号をもう一頑張りしました。
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