「峠」河井継之助を訪ねて  長岡3
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榎峠
 2004年10月23日17時56分、新潟県中越地方を震度6強の地震が襲いました。長岡市妙見町でも崩落が発生し、攻防の激しかった榎峠は2年を経ても深い爪あとを残していました。

榎峠古戦場の碑
 古戦場の碑は崩落現場の妙見側に建っています。 1868年5月10日、継之助率いる長岡藩はここ西軍に占拠されていた榎峠を奪還すべく戦いを始めました。
 国道17号の旧道はここで通行止めになっており、復旧作業が盛んに行われていました。

朝日山へ
 激烈を極めた榎峠と朝日山。朝日山古戦場への車道は復旧工事が進められていますが通行できるような状態ではありませんでした。
 浦柄地区の方々により旧道が「恢興の道」と名づけられ整備されたということをネットで拝見したので、浦柄神社近くに車を置いて歩いて登りました。
 浦柄地区のサイト→

朝日山古戦場の碑
 登山道を登っていくとそこかしこに兵士の墓がありました。30分弱で朝日山の頂上に到着することができました。頂上には塹壕の跡などのほか記念館もあり、攻防戦で使用された砲弾などが展示されています。屋上からは長岡と小千谷の市街地を見下ろすことが出来、戦略上重要な地点であったことが体感できました。

西軍上陸の地
 1868年5月19日、朝日山攻防戦が膠着するなか、西軍は信濃川を渡河して長岡市街に侵攻する策に出ました。ここから急襲されては長岡城は目と鼻の先という感じです。

維新の暁鐘
 西軍の侵攻を知らせるため長岡藩士が打ち続けたという梵鐘

大黒古戦場
 長岡市街北部の大黒地区は北越戦争最大の激戦地とされているそうです。山本五十六の書による碑が建っていました。

八丁沖古戦場
 1868年7月25日未明、占拠された長岡城を奪還するため、八丁沖と呼ばれる深田や湿地を渡り上陸。西軍の守りを衝く奇襲戦法で長岡城の奪還に成功します。
 しかし、その日の午後の市街戦で、継之助は左足に銃弾を受けてしまいます。

墓所
 近代兵器で武装した長岡藩も圧倒的多数を誇る西軍に劣勢となり、総督の負傷に加え親藩である新発田藩の寝返りもあって戦況は一気に悪化。長岡城奪還も4日にして再落城してしまいます、長岡藩士は負傷した継之助とともに会津へ向かいます。
 長岡駅近くの栄涼寺には歴代藩主などとともに河井家の墓がありました。
 長岡が焼け野原になったことで継之助に恨み抱く人により、墓石は何回も倒されたということです。
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